昭和40年01月01日 朝の御理解
昭和四十年の元旦にあたって、どうぞ、本年も間違いのない方向に向きをおいて、そして信心を一段と進めさせて頂き、親神様のお心に添い奉りたい。これは毎年毎年というだけではなくて、今月今日、毎日、毎日がそうであります。どうぞ今日も一日、あなたのおおみ心に添い奉る一日でありますように。それを願い、それを真実思いながら、振り返ってみるとお粗末であり、ご無礼であり、実意をかいておることに、いつもあい済まん、という思いでございます。
三十九年も振り返ってみますと、本当に信心もできませんのに、広大なおかげの中に終わらせて頂き、ただ勿体ない、ただあい済まん、それに尽きるのでございます。本当にその勿体ない、あい済まんと、その心をもって、今年の信心をいよいよ進めていきたい。どうぞ神様、間違いのない方向をお示しください。そういう願いのもとに、私はおかげを頂いていかねばならない。
私共のひとつの願いのために、願いのもとに、信心を進めていく、なされていくというなるほど、願いが叶えられる。願いが叶えられるから、信心が間違っていないというのではない。自分の信心が間違っておったら、おかげ頂かんはずだけど、おかげ頂いておるところをみると、自分の信心は間違っていないんだ、というような思い方は間違いである。それは慢心である。ね。
ですからどこまでも私は、いよいよ神様の願いに添い奉る、特に今年はそういう一年でありたいと。親神様の願い、親神様の悲願にこたえ奉れるところの一年でありたい。神様は椛目の上に、今年はそのことをはっきり、お示しくださっておるのであり、これからそれが、そのことがだんだん、信心の上にも、おかげの上にも実現してくるであろうと、こう思います。ね。
そこにしょうてんをおいて、そして私共の身の上に、家の上におかげが現れてくるならば、それが本当のおかげなのである。ね。おたがいの身の上に、おたがいの家の上に、どうぞ万事万端の上に御都合お繰り合わせを頂いて、おひきまわしを頂いて、おかげを頂いていくと、なるほどお願いをする、おかげをいただく。だから信心が間違っていない、方向が間違っていないということは言えない。ほうこうが、よし間違っておっても、おかげをくださる。願えば。
そこで本年は愈々間違いのない方向を神様に差し示して頂いて、ね、その差し示されるままに、私共の信心を進めていきたい。愈々今年は椛目はそういう信心に、椛目全体が、そういう願いのもとに信心を進めていかなければならないお年柄のように思う。それに、めいめいの身の上に、家の上におかげを頂よるなら、これこそこれが間違いのないおかげであるということになる。ために私共が願いを持ったというだけではいけない。そこで私共が、愈々実意をもって信心に取り組ませて頂くけれども、その信心がややもするといい加減になり、ね、迫力をかいだものになる。
そこで私は思うんです。出来ませんでした。その出来ませんでしたことを、あたりまえの顔をせずにです、出来ませんでしたことをです、素直に詫びていくということだと思うです。私は実意をかくとか、横着とかということはです、ね、横着ではおかげにはならん。、神様、また今日も出来ませんでした。また今朝も遅れました。一生懸命の願いを持ちながらそれが出来てない、出来ない場合はです、ね、私はもう平身低頭、そこにお詫びをしていく以外にないと思う。
<ふじせきしんめい>《不惜身命》という言葉がある、ね。自分の身を惜しまない。私は身惜しみをしてはならないと、力のだしおしみをしてはならないと思う。ために、力をいただかなければならん。そしてその力をだしおしみすることなしにです、一生懸命に、神様の願いの達成のために、願いの成就のために働きぬかせて頂き、力をだしぬかせて頂くおかげをいただいていく。
今年の信心はです、いよいよ神様の願いのことのために焦点を置いて信心を進めていくならば、これから、ね、これが神の願いぞと、これが神の思いぞというのを、私は、ね、出来きれば出来ただけ、次に、もう神様の願いをお打ち明け下さると私は思うのです。ね。その神様のお胸の内を分からしてもらい、悟らせてもろうて、それに進んでいく。このところに方向づけをして頂きまして、その方向づけのことがです、私共の身の上に、家の上におかげが付いてくる。ここに間違いのない方向を歩かせて頂いておる、進ませて頂いておるという信心をもって、今年進んでいきたい。
ただその思うておるだけではなくて、それを実意をもって貫かせていただく。今年は巳の年だそうですね。私共の家内が巳年です。私は、ここ2、3日家内に言いよる。もう来年はどうでもこうでも、ひとつお前の年にあやからせてもろうて、お前の真似をさせていただこうち。お前の信心じゃないぞと。お前のあの辛抱強い、いわばその、巳の年ですから執念深い。あの辛抱強さだけには、私はいつも一目置いておる。ね。
あれはある意味でひとつ<ふじせきしんめい>《不惜身命》です。自分の身を惜しまないでの家内のあの御用ぶりです。信心では、信心ではありません。ですからです、私共がこの実意をもっての信心の中にです、ね、家内が日々、私共に、いうなら示すためにしておるわけではないでしょうけれどもです、それをひとつの手本にしてです、おかげを頂いていったならば、有り難いことだろうと、こう思います。
私に家内の辛抱強さを内容と頂いたらです、はー、今日もまたあい済みませんでしたなんていうようなことになってこないですむと思うんです。ね。毎日毎日同じことで失敗して、そしてあい済みませんでした、ではね、いよいよそれはあい済まんことになりますから、ね。どうぞ、本年はね、椛目にとりましても、本当に神様の願いにこたえ奉らなければならないお年柄に突入しておるように感じます。
それは私共は、その気になればです、そのことは次々と、その道を神様は示してくださいます。私が感じておること、私が頂いておること、今、皆さんに申しましても、先のことですから分かりません。問題は皆さんがそういう腹をここに作られるということ。そこから、そんなら神様、どういう方向に足を向けたらよいか、ということに、また次の段階がなってくるのじゃあないかと、こう思うのですね。
本当に去年一年のことを思わせていただいて、実意が足りなかったと、いわば横着な一年間であったと。それでも、おかげを頂いておる。おかげを頂いておるから、今までの生き方が間違いはなかった、というような思い上がった思い方を捨ててです、間違いのない方向に向かって進ませてもらい、さらに出来んなりにでも出来んところを詫びぬかせてもろうて、そして自分の身の上に、家の上におかげをいただいていくならば。
それが出来る出来んは別として、それは歩みは遅々としておりましてもです、間違いのない方向に向かって、信心を進めておるということになるわけではないでしょうか。どうぞ、今年はひとつ方向を間違えないように、ね、椛目、いうならば、打って一丸となって、同じ方向に向かってです、邁進したいと念願しておるので御座います。おかげ頂きまして有り難う御座いました。